どうも、りんです。
年内の振り返りをする前に、まさに雑記たる雑記を書き残しておこうかと思い立ち、これを書きます。
なぜ芝居を続けているのか。
なぜそれに固執しているのかを書こうと思います。
虐げられてきた、なめられてきた半生
私はもとはというと、武田友紀さんが書かれている本に登場するキーワード「繊細さん」のように、ボーっとしたり、朝の鳥のさえずりを聞くのが好きだったり、リビングで日が差す場所に寝っ転がり日向ぼっこするのが好きという、そんな少年でした。
弟が泣いたらそれにつられて泣いちゃうとか、そんな感じで感受性の強い子で、泣き虫でした。
ただ、小学三年生と四年生の時に、何を思い立ったか学級の友達を捕まえて漫才みたいなのをやるなんてことしたり、運動会の応援団に参加したりと、人前で大声を出すということにはなぜか関心があった子でした。漫才に関してはなんでやったのか未だに覚えてません。
まぁそんなわけで、マイペースである意味周囲とはズレた感性を持っていたがゆえに、いじめを受けてきました。
これについては少し前に散々このブログで書きましたのでそちらに譲ります。
見た目もひょろいので、まあ運動ができる輩から舐められる。
なぜか突然虐げられる。
そんな時間を過ごしていた時期がありました。
いじめられてるときは、まぁ未来に希望が無くなって何も感じなくなるので辛くなかったんですけども、今になって思うと腸が煮えくり返る思いに駆られます。
もっとやりたかったことがあったなと、今にしては思うのです。
そう、私の中には常に、舐められたり虐げられたりした怒りが渦巻いてます。
これが芝居をやる原動力になっていました。
芝居をすることで自分なりに復讐し、証明していく
高校1年から今までの11年間、私はこの怒りをもってやっていました。
勿論前述したように、人前で大声を出すことにそれなりの快感を感じていたので、舞台に立つこと自体が喜びだったりするんですけども。
それでも、この怒りなくしてはここまでやってこれなかったでしょう。
芝居をやり続けてきた理由というのが、芝居の中ではこの<怒り>が正当化されたような気がしていたからです。
過去にさかのぼって復讐するというのは無理なので、フィクションの中でこの怒りをぶつけるという快感を感じていました。
因みに「行動力がある」とよく言われるようになりましたが、それはいじめられていた時はやりたいことなんて殆どできなかったから、それを払拭するようにやりたいことを実現させていったのです。
「お前なんか何もできない」
と自分の中でそんなことを言われるような気がしてましたが、「そんなことねえ!俺だってできらぁ!」と、自分が思い描いたことを実現できることを証明して見返してやりたかった。
だから私は挑戦を続けていきました。
今度こそ、自分がやりたいと思ったことを実現してみせる。そして俺を舐めやがった奴ら全員見返してやる
そんな執念にも似た意地でここまでやってこれました。
自分の中にあるどす黒い<怒り>を綺麗に描きたい
実はというと、インプロ(即興演劇)は途中で極めるのを2,3年前ぐらいに辞めてます。
劇団しおむすびにいたとき、後輩の海原優騎の才能に素直に白旗をあげて辞めたのです。まぁもともと脚本の方がやって楽しいなって思ってたので、それでいいやと思ってました。
しかし最近になって思うようになりました。
なんでインプロより脚本なんだろうかと。
別にインプロをやって楽しくないわけではないのです。
正直なことを言うと、自分より評価されている人が多くて、しょげただけなんです(笑)
ただ確かに脚本の方が面白くてやりやすかった。最近になってその理由がわかりました。
それはなぜかというと、自信に眠る<怒り>を扱うのであれば、脚本の方がやりやすかったから、これに尽きます。
私はこの<怒り>をなるべくきれいな形で放出したいと思っています。
きれいな形ってのはまぁ定義があいまいですけれども、なんというか私が納得がいく形で出したいという願望があったのです。
インプロだとこの<怒り>が邪魔になることが非常に多く、それで上手くいかないことが数えきれないほどありました。
まぁこれは最近気づいたことなんですが。
しかし、ここ数日の間でこう思うようになりました。
この<怒り>、俺の表現を妨げてないか?
<怒り>を優先させてしまう
インプロだろうが脚本だろうが、大切なのは「その場で相手とつながる事」です。
ただ私の場合、相手とつながるよりもこの<怒り>を優先させてしまう。
「自身の証明」を優先させてしまうのです。
つまり相手よりも自分を優先させてしまう。必然的に「相手とつながる」のが難しくなります。
勿論、この<怒り>に助けられたこともあります。先日やった舞台「悪魔」は、まさに<怒り>なくしてはできなかった演目でしょう。
でも結局「悪魔」も<怒り>を必要以上に抱かないことをしたがゆえに、評価を得られたお芝居でした。
<怒り>にとらわれてしまうと、心に力が入り、自由ではなくなります。
弾まない心でお芝居をやっても、どうしても限界があるのです。
<怒り>に隠れた気持ち
とはいえ、この<怒り>を捨てるというわけではありません。
私の心には様々な気持ちがあふれています。
以前よりも周囲に人が増えた喜び
舐められ虐げられて、自分を邪魔してきたものに対しての<怒り>
自分が評価されず為したいことを成しえなかった<哀しみ>
表現をすること自体の<楽しみ>
紛れもなく<怒り>も私の心から生まれた気持ちなのです。
捨てられるわけない。
今まで助けられたし、これからも助けられるでしょう。
ただ、この<怒り>が強すぎて自分の見えない魅力というものもあるのではないか、そんなことを思うようになったのです。
この<怒り>は大切な気持ち。
でもそれ以上の<喜び>があり、その裏にある<哀しみ>があり、それがあるからこその<楽しみ>もある。それに気づけました。
これぞ、成長ですね(笑)
結論:知れたから<怒り>と付き合える
私は基本的に怒っています。
私はよくわからんうちに舐められてました。
だから舐められないように生きてきました。
私は私を壊したものに対して、私を妨げてきたものに対して、私を舐めてきたものに対して<怒り>を燃やします。
だけど、その裏にあるほかの気持ちにも気づけました。
だからこそ、本当は自分がどうありたかったのかが分かったのです。
もっと自分を見てほしい。
もっと自分を認めてほしい。
もっと自分をほめてほしい。
もっと自分のやりたいことを応援してほしい。
これが吉田光の偽らざる本音です。
この本音に気づいたからこそ、この<怒り>と付き合っていける。
なんかそんな感じがします。
はい、暴露大会おしまい!
それでは!