どうも、りんこと吉田光です。
いよいよ年の瀬ですね。もう2024年まで一週間きってます。どんな一年だったかは後日振り返るとして、本日は久々のスコラ日誌を。
スコラの三か月を終えてからもう半年が経過しようとしています。今振り返っても濃い期間を過ごしたなと思ってます。その中で特に体験として大きいと思っているのが、俳優が創作することを学んだことです。
俳優の在り方
日本における俳優を職業にカテゴライズすると職人になるかなと思います。製造業だと図面通りにものを作れる人。建築だと図面通りに家や建物を作れる人。そんな感じの職人になると思います。
図面が脚本になりますね。全体を把握する施工管理なり工場長なりの仕事が演出や監督、みたいな感じで。
では職人はものをつくることができるか。
勿論自身でオリジナルの製品をつくる、作家タイプの職人の方もいらっしゃるでしょう。でも日本の俳優は基本的にそういう発想がありません。勿論そうじゃない方もいますが。
脚本に書かれた意図や自身が演じるキャラクターを分析し、作品をよりブラッシュアップする技術職。それが俳優であると信じられています。
ですが、それゆえに生じる問題がここ最近浮彫になっています。それは俳優自身がコンテンツを創出することができない、つーかそれを期待されてないという点です。
上記の設計図通り云々のことを言うと、設計図とは異なることをしてはいけない、脚本家・演出家の思惑から外れてもいいが越えなくてはならない、という暗黙の了解的なものがあり、テストで100点取るのは当たり前、120点とれみたいな…。
いやまぁクリエイターの仕事なんてそんなもんだとは思うんですけども、ちょっと無茶振りが…。
なのでどうしても俳優は脚本家・演出家・監督よりも立場が下になりやすいです。
勿論作品の創作という意味では立場は同じになるはずなのですが、芝居の現場というのはどうしても立場の上下が生まれやすくなっています。恐らくなんですが、俳優と脚本・演出とで責任のバランスがイコールになってないから、というのもあると思います。
立場に差が生まれてしまうと何が起こるか。
ハラスメントです。
去年から東京の演劇界隈では重大なテーマとして扱われています。
どうしても演出家・監督から気に入られるために、俳優の人権を蔑ろになっていまうような事態が起こります。どこかで言いなりにならなくてはならない、なんなら自分から立場を下げる・人の言いなりになりにいく、みたいなことを感じてしまいます。
「そういうものはどこにでもある」とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。しかしねぇ、それにしちゃ起こっているハラスメント事案がヘヴィなんですよ。当事者じゃない自分でも、事態の内容を見聞きするだけでこう、情緒が揺さぶられるぐらいに。しかし私は同じ業界に身を置いている者として、見て見ぬふりをするわけにもいかないんですよ、困ったことに。
どんなにいい現場だとしても、出演する俳優のメンタルは平常時と同じではいられません。大きなストレスがかかります。正解がない表現を探求すること自体大きなチャレンジなのに、そこに作品の評価もついてまわり、自身の出演した作品の出来で今後の仕事にも大きくかかわってきます。
まぁフリーランスのクリエイターなんて、大抵がそんなもんなんですけどもね…。ただ自分でコンテンツを創出しない俳優になると、オーディションをゾンビのように徘徊する羽目になります。「肉よこせ」ならぬ「現場よこせ」みたいな感じで。
大変残念ながら、今と今後を見据えながら「現場よこせ」ともがいている俳優の心の隙に漬け込む、暴力や甘い汁からの騙し・初見殺しというのは今も昔も存在します。なんかねぇ、中々発言できないんですよねぇ。
俳優が創作すること
さてちょっとだけ私個人の話を。
細かい話ですし、「そういっちゃおめぇ」みたいな話にもなりかねないんですけども、脚本書いたら脚本家だし、演出したら演出家になるんですよね。俳優兼なにがしになる。別にそれでも悪くはないんんですけど、私はなんかピンと来ませんでした。
というのも脚本には脚本のセオリーがありますし、演出家や映画監督も同様に存在します。セオリーがいけない、というわけではないのですし、なんなら大切だとは思っています。でも学ばなきゃいけない感があるのが、ぶっちゃけめんどくさいし標準化されそうで首をかしげてしまうんですよ(私個人の感覚として)。
それになんだろう、俳優としてのの自分の感性を生かした創作はそれではないという感覚がありました。なんか文字で起こすとダサくなるって現象…わかります?わかってくれる人がいると信じたい。
脚本を書きたいわけじゃない。
演出をするけど、なんかぴんと来ない。
そんな私にとって、シアタースコラが提唱していた「俳優が創作すること」の考え方は新しい扉を開いた気がしました。
脚本を事前に書くということもなく、俳優の肉体とその動きで作品を創る(今回のクラスでは「音」を扱うところまでいかなかったので)。そちらの方が、俳優の感性で作品を創っている感じがあったのです。
要は俳優は俳優でコンテンツを創れるということが知れたのが大きかったってことです。
因みにスコラでは創作におけるコツやセオリーなんてものを教わりませんでした。とにかくみんなで道なき道を往くみたいな感じで。
それで必死に創った作品を観てもらい、どうだったを聞く。
この講評に関して面白かったのが、「こっちの方が良い」とかのアドバイスのようなことは避けるという暗黙の了解がありました。なんでだろう。
作品内の表現一つ一つに、「この瞬間は○○の効果が働いていた」「この表現は△△だと思った」というような言い方で講評しあってました。なんかアドバイスまがいのことよりこちらの言い方の方が、アーティストとしての考え方を進めやすいのかなと思っています。
どっちが良いか悪いかじゃなくて、その表現をすることでどのような効果が生まれるのかを検証する。
私はその考え方を、すごく地に足着いた納得の行きやすい理屈であると感じました。そういう理屈の方が共に創作するメンバーに共有しやすいですしね(共同制作においてアイディアの共有のしやすさは非常に大事)。
はい私個人の話終わり。
俳優と演出家が共に作品を創る文化を
さて前述した芝居業界の話に戻りましょう。
ハラスメントの問題が大きく取り上げられるようになった小劇場業界では一つの文化が生まれようとしています。
それは俳優も創作の過程に参加することです。
スコラ後に東京の小劇場業界で名が知れてる劇団・演出家が主催する演劇のワークショップにいくつか参加しましたが、その多くが俳優が創作するプロセスがありました。
よくある演劇のワークショップは事前にテキスト(台本)を渡され芝居をして、講師に評価してもらう、という形式がオーソドックスでした。渡されるタイミングは前日だったり当日だったりと、ワークショップごとに異なります。今でもこのタイプがオーソドックスだと思います。
しかし私が参加したワークショップでは、
- 台本のセリフ部分にいくつか虫食いのように空欄部分があり、空欄部分は好きな言葉を入れる
- 台本にはト書きが最低限で、配られた台本を基に俳優が創作していく
- 特定の参加者に対して過剰にひいきするとかもない
- 創作した作品について否定はもちろんしないし、順位もつけない。一つ一つ丁寧に講評する。
これにより、参加者である俳優に精神的安全性が保たれていました。
スコラでは「相手に時間とスペースを与える」ということを教わっていましたが、そのワークショップでは主催側が俳優に時間とスペースを与えていたように思えます。
そんな感じで、俳優にきちんと創作するスペースと時間を与える文化が生まれつつあると感じています。私としては大歓迎ですね。スコラで培った経験がそのまま使えますし、何よりそちらの方が楽しいです。
まぁそんなわけで、多分今後もこういった創作の場が増えていくことでしょう。業界全体がハラスメントを敵視するようにようやくなったので、これからを生きる演劇人である私も追随できるように、というか将来的にリードしていける人材になりたいと思います。
今日はこんな感じで。ではでは。