演劇

吉田光が「機械」を演りたいと思ったのはなぜか

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どうも、りんです。

最近、ありがたいことに予定がお芝居とかHSPとかで埋まるようになってきました。ありがたいことなのですが、体力的な観点からすると、休むペースを考えないとちょいときついですね。

頑張っている事柄の中に、来年1月に行います一人舞台演劇作品「機械」があります。

横光利一「機械」

APOFES出展作品 独り舞台演劇公演「機械」

「機械」とは大正の小説家・横光利一が書いた小説です。
一応、このりんちゃん、大学時代は日本文学科出身なのです。大学三年の時に研究したのがこの「機械」でした。

あたし、大学時代はそれなりにのらりくらりと単位をとってきた人間でした。自慢じゃありませんが、小説の研究演習の授業も、まあ可もなく不可もなく、成績も60か70点台ぐらいはとれるような人間だったのです(ぶっちゃけ授業自体も全体的に緩かったと思います)。

さて、大学三年生の演習にて、「機械」を研究することになったのです。
これがね、大変でした(笑)
小説というメディアの奥深さを心底味わったのです。

「機械」という小説の特徴の一つは「とてつもなく読みにくい」ということです。
とにかくね、改行が少なく読点も少ないのですよ。一文一文が長いのです。

上記は機械の本文をWordでまとめてみたものですが、見てくださいこの紙を覆いつくす文字を。改行がほぼないし、句読点も見当たらないんですよ、まいっちゃいますよね。1ページ1ページ、とにかく文字でぎっちぎちに埋め尽くされているんです。新潮文庫だと36ページあるんですが、4倍ぐらいの140ページぐらいのボリュームがあります。とにかく36ページという短編小説とは到底思えない濃度を誇る小説作品なのです。

当然、こんなに読みにくい書き方をしたのは横光の計算です。あえてこんな書き方をしているのです。つまり、この「機械」という小説は、小説だからこそつかえる表現手法で整えられている作品なのです

それまでは、「小説の中に出てくる言葉が持つ社会的風刺的な観点」だとか「2人の登場人物の対比描写」だとか、ストーリー的な観点で研究することが多かったです。「小説とは物語を綴るもの」と捉えていた私にとって、この読みにくいテキストがこの小説の演出の一つになっているというのが驚愕だったのです。

人間は歯車なのか

機械で描かれているのは、とあるネームプレート製造所の人間模様です。まるで人間が歯車のように同じ働きをしていて、機械のような働きをするさまを描いています。

社会人として働き始めたとき、私はこの「機械」を思い出しました。会社で働く人間は、まるで自身を機械の中にある歯車として機能させようとしているという事実を見せつけられたのです。私は、それが心底嫌でした。私は歯車になんかなりたくない、そう思いながら働いていました。

だけど、結果として歯車の一つになってしまっているのです。

それが分かったとき、「機械」で一人称語りをしている「私」とに親近感を覚えました。それからです。「機械」を舞台でやろうと決めたのは。

読んだ人からすれば、正気の沙汰ではない試みです。今まで朗読劇は行っていたようでしたが、これを舞台演劇でやろうとした人はおそらくいません。この作品自体がちょっとニッチな部類なのもあるのですが、それにしてもちょっとやるのはしんどい部類です。

でもなー、やりたいって思っちゃったからなー。

というわけで、自分を逃がさないように、やる予定を作りました。

「あーあ、しんどくなるなー」と思いながら、私は応募しました。事実として、しんどいんですけどね(笑)

というわけで、2019年1月に、三回公演を行います。

是非、お越しくださいませ。

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APOFES出展作品 独り舞台演劇公演「機械」

大正から昭和にかけて活躍した横光利一の名作「機械」を舞台化。

「私」はとあるきっかけでネームプレート製造所に勤務することになった。
始めは楽に思えたその仕事は劇薬に満ちた穴のようなところで、「私」の体を侵していく楽ではない職場だった。
だが「私」は自身の意地と製造所の主人の奇妙な人柄にひかれて働き続けることを決める。

製造所の主で奇妙な人柄の「主人」
製造所に忠実な職人「軽部」
他の製造所から現れた職人「屋敷」
そして「私」

この奇妙な人間関係は、どこかで働く機械のように確実な仕組みを持っているように、私は思えたのだ。

「作中の人物はネエムプレエト工場の骨組みと合体して機械のように運動する」
by.小林秀雄(文芸評論家)

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